人生の時間軸の境界線「東日本大震災」から8年が経過した日に思うこと
2011年3月11日14:46に発生した東日本大震災、ちょうど8年目の日を迎えました。さきほど東北地方に向かって黙祷を行い、終えた時に開いた目は涙であふれていました。
東日本大震災は東京に居た自分にとっても人生最大の衝撃的な出来事でした。それ以前と以後では時間軸に大きな境界線が引かれているように感じます。何を語るべきか、語るべきでないか、非常に悩むのですが、思うままに書いていきます。
その時が来たのは神田駅の地下鉄を降りて地上に上がった時。激震により建物群が倒壊するだろうと想像し身構えました。東京に居た自分でさえ死を覚悟しました。揺れが収まるも物々しい混乱した雰囲気、交通は麻痺し、避難する人、帰宅できない人であふれていました。大きな余震が続く中で帰宅難民に加わり、秋葉原のビルのロビーの大型TVに映し出される各地の惨状を観て恐怖で震えました。大混乱の中で帰宅できたのは翌日で、その後も計画停電、物資不足などの中で生活していきました。その時の一連の光景は鮮明に記憶に残っていて、一生忘れることはないでしょう。
離れた東京でも人生最大の恐怖体験でしたが、東北の人は比べ物にならないぐらい、想像を絶する悲惨な状況に遭遇したと思います。報道等で知ることができるのはそのほんの一部にすぎません。故郷を無残に破壊されたこと、身近な人が亡くなったり行方不明となったこと、考えるだけで胸が苦しくなり、涙があふれてきます。原発事故という難しい問題もあります。人間が抱えきれない、大きな災害だったのだと思います。
東日本大震災の経験は、人生を充実させて後悔なく生きていこうと強く決意するターニングポイントになりました。被災した事実や心情の変化について、細かい事を忘れたくないので当時の生々しい長文のメモが残っていて、たまに読み返して思い出すようにしています。その中に記されていた「命さえあればいい」という言葉は、当時の自分の切実な想いなのでしょう。何のためになるかはわかりませんが、それはいつか公開しようと思います。
悲劇的状況の中で、「絆」がありました。日本中が団結して助け合い、世界中からも支援の手が届いていました。困難の中で助け合う様子は、予想外にも世界中から称賛されました。自分たちを客観視した時でもあります。災害時に略奪が起きる「世界の常識」は「日本の非常識」であった。これは日本人の誇るべきことです。
辛い状況の時の事を思い出すのは良いのか悪いか分かりませんが、前に進むためにも、より良い状況にしていくためにも必要なのかなと思います。その後も様々な災害や困難な状況が起きていますが、あの時の気持ちを忘れずに、人をいたわり合える温かい社会になっていけたらと思います。
沢山の人の協力で物理的な復興が進んでいますが、8年経ってもまだまだ足りない事もあります。机上の空論ではなく、現地の人々の心に寄り添った、本当の意味での「完全復興」が早く遂げられることを切に願います。その為に自分ができる事を改めて考え、行動していきます。それが生かされた自分たちがすべきことです。
最後になりますが、震災で亡くなられた方々に心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。1日も早い復興が成されることを心より祈っています。